ニンシキロン。

2015/03/07, 09:00

■武器っぽい
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エリュートロン。ニンシキロン。
長銃かな?


が、幾何学ではなく哲学なおはなし。

認識論。

…まあまあ、そう堅苦しいことは書きませんし書けませんから。
知識含蓄のある人間ではありません。無知の知。
ご期待召さるな!

そんな感じでとろーんといってみましょう。
とろーん。
■わけわかんないよね
つったところでー、
しっかりちゃんと勉強した方でも意見がぶつかるようなもんだから。
私のような半端モノには語るのもおこがましい感あるよねー。
議論するにも~~論だらけだし、~~学ばかりで気が滅入るし。
といって、やりたいのは「哲学学」ではないし。

などとふざけていては、
アリストテレスさんやデカルトさんやカントさん辺りに石を投げられそうです。
その、カントさん。
今日は一点突破。
今日も、か!


___
カントさん、

 「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」

と言いました。
認識っていうのは、目の前にあるものがなんであるか?を捉えること。
対象っていうのは、ヤスミとかアーレスとか。好きとか嫌いとか。物とか事柄とか。
…なんですけど、私やあなたがヤスミと呼ぶそれは、果たして何なのか?
私やあなたが、「眼に映ったもの/頭で処理したもの」をヤスミと"認識"しただけで、
物自体(ものじたい)ではないのです。

感覚(感性)と知性(悟性)で「なるほど」できる限界が、私達の認識の限界。
それがヤスミやらアーレスマシンガンやらであって、
私達にはそう見えていても、私達が認識できない姿が実はあるのかもねー?
という、プラトン哲学・神学のイデア論みたいなアレになるわけです。(適当


んでんでー。
ひらたくいえば(つまり誤解を多少含んで言えば)、

 感性 = 感覚、直感、本能、知識
 悟性 = 知性、経験、理解、思考

みたいなものです。わかりにくいですね。あっ哲学者さん石を投げないで
…そんでもってカントの兄貴は、

 「どっちが欠けてもいかんぜよ」

と言っています。(唐突な土佐弁
言っていませんけどね。言っているんです。(哲学

認識を行ううえで、感性も悟性も不可欠ということ。
というのも、人間はまず、物体X…対象を、感覚で受け止めます。
どんな形だ色だ材質だ、の情報を集めます。
その後に、悟性でもって、情報を組み立てて、対象を理解します。
この一連の流れが認識。
それを受けて理性が動き出すワケですが、そこは今日は割愛。

というわけで冒頭のセリフ、

 「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」

は、なんとなく理解できますよね。
私達が認識をする以外に、対象は(私達のなかに)存在しえないのです。
認識しないならしないで別に世界は困らないのでしょうけどネ。
そして、その認識するという行動はとっても受け身。
与えられるものを取り込むことでしか成し得ないことです。
しかも、それを頑張ったところで得られるのは




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なモノであるワケです。
ちょっとこう、物悲しい感ありますよね。
どんなに頑張っても認識は認識。
個人個人が自分の物差しでそれぞれ測ったものであるのみです。
人によっては「解釈」とも表現しますね。
解釈の違いだから、違ってもしゃーない。

…けれど、それをいっちゃあおしまい。
水戸黄門の印籠、デウスエクスマキナ級の丸投げです。

こういった一つ一つの"認識"をもちよって、私達はお互いを理解していくのです。
同じものを見たはずなのに、ちょっとずつだけ違っている。
その認識が近ければ近いほど共感はしやすいし、
遠いなら遠いなりに、異なった認識を与えてくれる存在だったりもします。

 「合っている、違っている」

程度の物差しだけで判断しては、たぶん損。
…というのも、あくまでも私の認識。
あなたの認識では、どうですか?



■まとまってないまとめ
認識をするためには、感性も知性も大切。
どちらかを蔑ろにしたり、偏重したところで、
もともと不完全なカタチである認識が、さらに歪になるばかり。

理性は、認識を拡張していきます。
正しい認識のうえで、適切な作用をすれば素敵なこと。
歪んだ認識のうえで、勢いに任せてしまえば大変なこと。
ゆがんだ積木は崩れやすいものです。
崩れる前に気付くか、崩れ去った後に気付くかは大きな違い。
なにごとも。なにごとろん。

なるべくなら、歪みは小さくいきたいところーん。
とろーん。
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